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【オリンピック感動秘話】マラソン54年越しのゴール

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みなさん、フルマラソンの世界最速記録をご存知ですか?

そのタイムは2015年1月現在、ケニアのデニス・キメット選手が出した2時間2分57秒

 

単純に計算して…

100mを17.5秒

50m走を8.75秒のスピードで42.195kmを走ったことになります。

時速にすると20.6km

これは全力で自転車を漕いでいるときのスピードに匹敵します。

 

では逆にマラソンの世界「最長」記録を知っていますか?

そのタイムはなんと「54年8か月6日5時間32分20秒3

 

この記録をたたき出したのは、1911年ストックホルム大会のマラソン日本代表選手だった金栗四三選手。

金栗四三は箱根駅伝の提唱者であり、富士登山競争、高地トレーニング、インターバルトレーニングなど日本に新しい練習方法を次々と取り入れるなど、日本マラソン界に尽力し、日本マラソンの父と呼ばれています。また、あのグリコののパッケージのマラソン選手のモデルの一人でもあります。

 

その金栗選手が一体なぜ54年という記録を出したのでしょうか?

 

日本人初のオリンピック選手

金栗四三選手は、ストックホルム・オリンピック開催の前年(1911年)に行われた国内予選会で当時のマラソン世界記録を27分も縮める大記録、2時間32分45秒をたたき出し、日本人初のオリンピック選手となりました。この時金栗は若干20歳。

 

ストックホルム五輪で旗手を務める四三(このとき20歳)

 

過酷な状況のレース

そして迎えた、ストックホルムオリンピック。

マラソン競技は最終日の目玉でした。

当日、ストックホルムは32℃を超す暑さ。その中レースは始まりました。

過酷な状況でのレースは、出場選手68名中、約半数の選手が途中棄権し、完走したのは34人。

レース中の29km地点で気を失って倒れたポルトガルの選手は脱水症状が原因で翌日亡くなっています。

 

金栗選手はレース途中、約27kmの地点で日射病のため、意識を失ってしまいました。

そして沿道の農家が倒れた彼を介抱します。

金栗選手が目を覚ましたのは、既に競技も終わった翌日の朝でした。

四三はお世話になった農家の方に上着を借り列車で静かに宿舎に戻ったそうです。

 

実はその日、彼は不利な条件を背負っていました。

当時、日本からスウェーデンに行くには船や列車を乗り継いで約18日間もかかり、四三は長旅の疲れが溜まっていました。

また、スウェーデンの夜は明るく、十分な睡眠も取れず。

さらには、マラソン競技当日、会場への車の手配がうまくいっておらず、金栗選手を迎えに来るはずの車が来なかったため、四三は走って会場入りをせざるを得なかったそう。

 

金栗選手は日本の期待を一心に背負いながら完走できなかったことで深い自責の念に駆られました。

 

あきらめない心

帰国後、四三は4年後の第6回ベルリンオリンピックを目標に練習に励みました。

日本選手権などで2回も世界最高記録を出すなど成績は絶好調。これでメダルは間違いなしと思われました。

しかし、1914年に第一次世界大戦が勃発し、オリンピック自体が中止になってしまいました。

 

それでも四三はあきらめません。

戦後迎えた1920年第7回アントワープオリンピックに出場します。

しかし優勝を期待されながら、無念の16位。

 

次の1924年第8回パリオリンピックにも出場しましたが四三は途中棄権。このとき彼はすでに33歳。

 

結局、四三はストックホルムのリベンジを果たせないまま、悲運のアスリートと言われるようになりました。

パリ五輪出場時の四三(このとき33歳)

 

一通の手紙

初のオリンピックを途中棄権してから50年余りが過ぎた昭和42(1967)年。

75歳になった四三のところに一通の手紙が届きます。それはスウェーデンのオリンピック委員会からでした。内容はストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待するというもの。

実はストックホルム大会の時、正式に棄権届を出していなかった四三は、記録上「競技中に失踪し行方不明」として扱われていたのです。

その「消えた日本人選手」が、今も健在であることを知った委員会が四三を招待したのでした。

その招待状には、次のように書かれていました。

 

「あなたは、1912年のストックホルムオリンピックマラソン競技において、まだゴールをされていません。あなたがゴールするのをお待ちしております」

 

54年越しのゴール

四三は、半世紀ぶりにストックホルムに降り立ち、思い出のスタジアムを訪れました。

四三は当時の懐かしさを噛みしめながらトラックへと入場します。

スタジアムには大勢の観客が四三を待ち構えていました。

割れんばかりの拍手の中、四三は20メートルほどの直線を走ってゴールテープを切りました。

ゴールテープを切る四三(このとき75歳)

 

スタジアムには、

 

「ただいまゴールしたのはミスター・カナグリ。ジャパン。

タイムは54年8ヶ月6日5時間32分20秒3。

これで第5回ストックホルム大会は、全日程を終了しました」

 

とアナウンスが流れました。

四三は20歳でスタートし、75歳でようやくゴールテープを切ったのです。

 

四三はゴール後

「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」

とコメントを残しています。

 

ここに世界でもっとも遅い、公式マラソン記録が刻まれました。54年8ヶ月6日5時間32分20秒3です。この記録が破られる事はおそらく無いでしょう。

画像引用:http://sakura1.higo.ed.jp/sh/tamanash/kanakuri/kanakuri-zuroku.htm

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ライター名:三井田尚寛 TOKYO PLUS+